2022年11月をもってアマナイメージズ仕入部を退職し、引き続き当社のコントリビューターとして活動いただくことになった石井義信さん。
1982年に日本の自然科学写真エージェンシーの最高峰だった「有限会社ネイチャー・プロダクション」に入社。同社が2014年にアマナイメージズに合併後も、40年に亘って図鑑や教材などに使われる写真に関しての知見をいかんなく発揮してきました。
「自然科学のアマナイメージズ」の立役者とも言うべき石井さんに、ご自身のことや、自然科学の写真の魅力についてお聞きしていきたいと思います。
自然科学に興味を持ったきっかけは?
幼い頃からの生き物好き、写真好きは父親の影響があると思います。
中学生の頃、平凡社から「自然史」をテーマにした月刊誌「アニマ」が創刊され、書店で見つけて以来、定期購読して愛読していました。
当時の生き物写真家にとってそこが大きな発表の場で、自分が撮って蓄積したものをそこで発表するという、作家としての成長の場でもありました。
「アニマ賞」という写真の賞もやっていて、まさに生き物写真家達の目標であり、魅力的な発表の場、登竜門だったんです。
色々な特集や記事に使われた写真に、クレジットとして作家名と「ネイチャー・プロダクション」の表記をよく見かけて、「このネイチャー・プロダクションというのはなんだろう?」と思ったりしていましたね。
—その頃からネイチャー・プロダクションがあって、アニマ賞をとるような写真家さんたちの取扱いがあったということですね。
そうですね、会社ができて間もなくの頃だと思うんですけど、代表の三谷英生さんが出版社とのつながりの強い人で、アニマの人達ともとても近しくしていましたね。
写真家自身も「アニマ」というのは自分の変遷の中で一つのターニングポイントとしている人は多いと思います。
—写真を撮るのもお好きだったんですか?
カメラ好きの父親が2台持っているうちの1台を中学の時に譲ってもらって、レンズは安いものを自分で買って撮影していました。
大学時代は、サークル仲間でのちに動物写真家となる原田純夫さんと仲良くなって、もっと写真をちゃんとやりたいと思い、バイトして400mmの長玉のレンズやカメラを買って、あの頃よく撮っていましたね。
サークル活動や卒論で生物を観察する時も、写真撮影は一つの重要なポイントでした。
どんな学生時代を過ごしましたか?
本当は獣医になりたかったんですが、東京農大の畜産学科に進学し、入学してからは学業そっちのけでサークル活動に没頭していました。
「自然保護研究会」という農大の中でも歴史のあるサークルで、創設当初から丹沢の植林木へのシカの食害問題に取り組んでいました。
人との共存、共生の道を探るべく、東丹沢をフィールドに、シカの足跡、糞、食痕などの痕跡調査を基本とした生態調査を行っていました。
その頃の私は、とにかく山へ行きたくて行きたくて毎週末のように山へ入っていましたね。
—畜産学科でありながら卒論は「ヤマセミ(野鳥)」だったとか。
はい、サークル活動で行っていた丹沢でヤマセミを見る機会が多々あって、本来鳥好きの私としては時間をかけてもっと知りたい、調べたいな、と。
農大は比較的自由な気風があって、卒論をとってくれる先生さえいればいいという形だったから、野生動物が好きな先生に頼み込んで、ヤマセミを卒論にできたんですよ。
観察が基本なので、当たり前のことですが、明け方前からずっとブラインド(野鳥観察用に使う迷彩柄のテント)の中で座って餌場を観察したり、繁殖期に入る2月ごろには雪が降り積もる中で求愛行動を観察したり、辛いけれどこの機会を逃す訳にはいかないと思って、あの頃は夢中でやっていましたね。
—サークル仲間とはその後も交流があるのですか?
サークルの仲間とはつながりが強くて、卒業して3~4年くらいの時にアラスカに行きたいよね、という話になって夏に2週間ほど行ったんですよ。
皆、思いは一緒で、アラスカで撮影した数々の作品を発表していた写真家・星野道夫さんの自然観、表現する世界への思い、憧れがあったんです。星野さんの写真は、アニマなどにもよく掲載されていました。
キーナイ半島やデナリ国立公園を中心に回って、カリブーやムース、ハクトウワシなどの野生の姿を現地で見るという初めての経験にやっぱりワクワクしましたね。
日本と違ってアラスカの野生動物はそこまで人に対しての警戒心が強くなく、こっちがちゃんとマナー、一定の距離感を守って接していけば、あまり意識されずに観察ができました。
その違いに驚くとともに、その背景にあるであろう培ってきた人と動物との関係のあり方、それを受け継ぎ続けていることなど、自然保護に関わってきた人間としては考えさせられるところもありました。
ネイチャー・プロダクションとはどんなところでしたか?
さて大学を卒業という時に、何か生き物・自然系に関係した仕事がないかなと思って、電話帳で「ネイチャー」という項目を調べていって、「ネイチャー・プロダクション」を見つけました。
「そういえばアニマで見かけてたな」と思って仕事内容もよく知らずに電話したところ、面接を経てまずはアルバイトで採用、半年後に正社員として採用されることになりました。
働き始めたら、それこそアニマで見ていた写真家のオリジナルのポジフィルムを見られるという環境で、とても嬉しかったですね。
時々遠方の写真家が事務所に顔を出してくれたりして、そこで撮影に関するエピソードや考え方など色んな話を聞けて、それが本当にこの仕事をしていくなかで自分の蓄積になったんですよね。
—当時ネイチャー・プロダクションはできたばかりですよね?(1976年設立)
そうなんですよ、設立6年目で、僕が初めての新卒ということになります。
ネイチャー・プロダクションの成り立ちをお話すると、代表の三谷さんは元々、学研の学年誌「学研の科学」の編集担当だったんですよ。
当時は自然科学専門の写真エージェンシーが無いので、色んな情報を探って全国各地で生き物を撮っている人達を見つけては出向いて行って話をして、それで誌面に写真を使わせてもらう、という状況だったと聞いています。
そんな中で昆虫写真家の栗林慧さんと出会い、そして栗林慧さんを中心に様々な分野の生き物写真家が集い「NPS」(ネイチャーフォトスタジオ)という写真家集団ができたんですね。
1975年には、NPSから書籍「光の五線譜」という本が出版されました。NPSの写真家の撮った写真に、詩人・哲学者の串田孫一さんという方の随筆を合わせた本でね。
それがヒットして、第二弾・三弾が出るうちに「生き物の生態写真をやっている人たちがいるんだ」というのがだんだん世間に認知されてきたんですよ。
—自然科学の写真家ネットワークと、様々な媒体で使用される下地が揃ったというわけですね。
「光の五線譜」の世界観をカレンダーにしようと思ってくれる人たちがいたりして、生き物の写真はその頃だいぶカレンダーに使われましたね。
当時、自然科学の写真家は生き物が好きで、その生態を知りたくて撮ってはいるけれども、一生を通しての仕事として生活の糧にできる道がそんなに多くはなかった。
でもそういう写真世界があることや色々な使い道があることが認知されてきて、やっていけそうな機運が生まれて、三谷さんも彼らの写真をもっともっと売り込んでいこうと、翌1976年にネイチャー・プロダクションが立ち上がったと聞いています。
—入社後に学んだことは?
少人数の会社なので仕入れから営業、顧客対応、業績管理など全てをこなしていました。
その当時一番良かったのは、お客さんが会社にポジフィルムを見に来てくれることです。
編集者には生き物に詳しい人や学者肌の人もいたりとか、いろんなことを訊けて知識面でも勉強になりましたよね。
そういうやりとりの中で、お客様の仕事の内容や欲しいイメージを掴んで提案できるようになったり、求められるクオリティの感覚が培われたと思います。
(#2に続きます)
リサーチ・取寄せなどお問合せフォームはこちらから。